明治期に輸入された舶来品!キリスト教に基づく平等思想や博愛思想

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つまらぬ私事で恐縮ですが、今年はまだ、あまり餅を食べていないのです。コンスタントに寒い日が続いていますから、温かいお雑煮にして食べたいですね。さて、受験生の不安をいたずらに煽(あお)るのは良くないと、今まで敢えてあまり触れないでおいたのですが、実は私、オミクロン株の感染拡大が非常に怖いです。意気揚々と過ごせたのは年末年始くらいで、それからは、もう毎日、オミクロン株の感染急拡大におびえております。恥ずかしながら、私、実は小心者なのですよね。
そんな中、ある嬉しい出来事がありました。その顛末(てんまつ)をお話しします。私が自宅で在宅勤務をしていると、やはり無意識にオミクロン株を恐れている母が、「私がオミクロンにかかったら、もうこの家には戻ってこれないから!」と叫ぶのですよ。私は、ついガスが溜まってしまい、自転車で隣町の都立公園まで行きました。すると、もう梅林に梅の花が咲き始めていたのです。私は、思わず心から嬉しくなりました。受験生からは、すでにチラホラ合格の報告が入ってきているので、梅の花も受験生の栄冠をたたえているかのような、そんな高貴な香りでした。考えてみれば、もうすぐ立春ですからね。観梅の時期に入っても、おかしくない頃です。これから第一志望校、第二志望校を受ける方々も、自然のパワーから元気をもらって全力を出し切ってほしいと思っています。
なんでも、梅の花は、咲きはじめよりも完全に開花した時のほうが強く香るそうで、梅が完全に開花した時には全ての受験生に合格が届いていてほしいですね。また、梅の花は朝のほうが香りが強いという事で、私も受験生時代は、受験本番に向けて朝型に持っていったことを思い出します。
以下は、私の一考察になります。お時間のある方は、お付き合いください。
付かぬ事ですが、数年前、NHK大河ドラマで同志社英学校と同志社女学校を設立した新島襄の活躍を認識したとき、女子高等教育の歴史について考えるようになりました。明治の文明開化に始まった長い教育改革を経て、現在のいわゆる男女共同参加社会にたどりついたのだろうと思うと、そこにおいて果たした「キリスト教」の役割はいかなるもので、どの程度のものであったのかと、つい空想を巡らせてしまったのですね。はたして、「男尊女卑の思想を排して男女平等の教育・社会を創り上げるのに」明治期の舶来概念はどこまで、どのように根本的な役割を果たしていたのかと。
明治期にキリスト教の思想に基づく平等思想や博愛思想が日本に入って来ました。でも、昨今の西欧の社会状況を社会学的に分析した結果、アジア地域を凌駕(りょうが)する平等思想が西欧にまだあるとすれば、どのようなものなのでしょうか。つまり、西欧においては、やはりキリスト教は「ユダヤ教やイスラム教およびその他の宗教を厳しく峻別するもの」である以上、トルコ系・西アジア系・アフリカ系排斥はなくなりませんし、平等と言っても「キリスト教の中での平等」に過ぎないことも歴史的に多々ありました。
そもそもカトリックとプロテスタントの対立は今なお西欧で根強く、やはりアジア地域の社会と言うと、約1500年以上存在し続けた儒教・仏教の思想に基づいて成り立っているところが否めない気がするのです。そもそもフランス革命の標語であった「自由・平等・兄弟愛」は男性のみの利権だったと言います。「兄弟愛」は英語で言うとbrotherhoodであることからもわかりますね。sisterが含まれていないのです。昨今の「politically correct」では、「brotherhood(兄弟愛)」を「friendship(友情、友愛)」と言いかえるのですね。
さらに、明治以降「キリスト教」と共に輸入された「西洋音楽」の東アジアにおける意義や表象は、時と場合によって「ブルジョアやエリートのステータスシンボル」であり、これが果たしてどういうメカニズムで平等思想を東アジアに打ち立てることに貢献したのか、大変興味深いところです。たとえば「教会には誰でも入れて音楽と共にミサをやっているから」というのが、西欧でキリスト教やキリスト教音楽と共に平等思想や博愛思想が広まったメカニズムでしたが、これがそのまま日本でも同じように機能しているとは言いがたく、お偉方の先生方が研究することは尽きないようです。